兵庫県がお城日本一な理由

以前の記事で兵庫県はお城の数日本一と紹介しましたが
なぜ兵庫県にお城が多いんでしょうか?
お城が多いということは戦が多かったでしょうし、戦が多かったということは何かしら争いが起こりやすい条件があったのだと思います。
歴史や地理にヒミツがありそうだと言うことで、調べてみました。
古代から交通の結節点
古今東西、人や物が行き交う交通の要所は商売が栄えたり、時に争いの火種にもなってきました。
きっと敵を監視したり物流をコントロールしやすい場所を抑えるのは戦略的に有利だったからでしょう。
兵庫県に城が多い理由の一つに、そうした古代からの地理的条件があると言われています。
律令制が敷かれていた時代(7世紀後半〜10世紀)には五畿七道(ごきしちどう)と呼ばれる行政区分がありました。
五畿(畿内)は昔の首都圏のような地域で、そこから放射状に伸びる七つの行政区分を七道と呼びます。
兵庫県は南東部が畿内に入っています。
七道は行政区分なので、厳密には道(みち)ではないのですが、七道をつなぐ主要道路(官道)はこの時代にはすでに存在し、現在もその名前が使われている所も多いです。
三つの主要な道路が通る
五畿七道を結ぶ主要な道路のうち、三つの道路(山陽道・山陰道・南海道)が兵庫県を通っています。
平城京〜平安京へと都が移る過程でルートは若干変化していますが、おおよそ上記のような道筋をたどっていました。
山陽道
畿内から太宰府を結ぶ幹線道路。
当時は中国からの使節が都に入る道でもあり、五畿七道を結ぶ道のうち唯一の大路として非常に重要視された道でした。
現在のJR山陽本線や山陽新幹線は律令時代の道を元に作られています。
山陰道
畿内から日本海西側を通り、出雲まで続くルート。
現代でも国道9号として、当時の道筋を通るところが多くあります。
ルートとしては小路ですが、出雲には古事記に登場する神話が多く伝えられていることから、大和(やまと)朝廷に拮抗する勢力が存在したとする説もあります。
南海道
畿内から和歌山、淡路を通り四国へ至る小路。
現存する日本最古の私鉄、南海鉄道はこの南海道が由来。
淡路島が「御食国」と呼ばれたのもこの頃で、朝廷に献上する海産物はこのルートを通っていたと思われます。
畿内と西国を結ぶ兵庫県
兵庫県は当時の首都圏である畿内の一部を含み、また隣接する国「播磨国」がありました。
当時の日本には国力で4段階の格付け(大国、上国、中国、下国)があり、播磨国は一番の「大国」に格付けされています。
畿内以外で主要街道(大路)の大国は播磨国だけであり、この国は播磨国風土記(はりまのくにふどき)に現れているように古い時代から独自の勢力として存在していたことが伺えます。
日本の転換期に決戦が行われている
時代の変わり目には必ず大きな戦が行われており、その決戦の舞台には必ずと言っていいほど兵庫県が含まれています。
戦があるからお城が建つのか、お城が建つから戦になるのか、いずれにせよ戦とお城は切っても切り離せない縁があり、それが時代を変える合戦であれば尚更です。
日本の歴史的に重要な戦
一ノ谷の戦い
平安時代末期、鎌倉時代に突入する前に起こった有名な「源平合戦」の一つ
源氏と平氏が激しくぶつかり合い、結果として平氏が大敗、平家が滅亡する分け目になった合戦だったとされています。
その後、源平合戦の花形として能や歌舞伎の題材にされるほど有名な出来事でした。
湊川の戦い
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅亡させ、南北朝時代になる当初、南朝が勢力を誇っていました。
湊川の合戦は南北朝の形成が逆転し、室町幕府の成立にまで繋がる大戦だったといわれています。
『太平記』によるとその激しさは「天を響かし地を動して攻め戦ふ」と形容されるほどの戦いだったようです。
湊川の戦いで戦死した楠木正成は負け戦と知りながら天皇のために身を賭して戦った武将として語り継がれています。
三木合戦
戦国時代後期、一旦は秀吉に平定された播磨一帯の大名が別所長治を中心に次々と離反する出来事ありました。
羽柴秀吉は別所長治が籠城する三木城を落とすまでに約2年もの月日がかかり、結果的に西国の侵攻が大幅に遅れることになりました。
また、秀吉配下の参謀、竹中半兵衛が亡くなり、秀吉にとっても手痛い戦だったといえます。
戦略上重要だったお城ピックアップ
リンクはHyoGoナビに飛びます。写真は引用させていただきました。
「お城」の定義は明確に定まっておらず、明治期の砲台を備えた要塞や、弥生時代の環濠集落もカウントする場合があります。
詳しくは日本の城の数ランキング(ざっくり調べ)をどうぞ
県内の領主、130以上
江戸時代末期、大名領以外に幕府直轄の天領や旗本領を含めると130以上の領地が存在していました。
代表的な藩を見ると
- 姫路藩:15万石
- 明石藩:8万石
- 篠山藩:6万石
- 龍野藩:5万1千石
姫路藩が最も高く、あとは1万石前後の藩が多数乱立しているのがわかります。
江戸時代で戦のない世の中でさえこれだけ細かく分かれていた地域はそうそうないのではと思います。
陣屋≒お城とする場合も
江戸時代には一国一城令が発布され、戦国時代に比べてお城の数は激減しますが、「城跡」もお城としてカウントするので、残っていなくてもその多さには代わりありません。
江戸時代は残ったお城を政庁にする藩主もいる一方、お城の代わりに「陣屋(じんや)」と呼ばれる藩庁を建てる藩主もいました。
1万石以下の大名は一般的なイメージのお城を持つことが許されなかったためですが、それらの中で城郭化や拡張を行い、城としてカウントされるに至ったものもあります。
佐用町にある三日月藩乃井野陣屋館などは日本の城郭として紹介されることもある陣屋の一つです。
そして、5国へ
明治時代、多数あった藩の区域を統合し、五つの国(但馬、播磨、丹波、摂津、淡路)を経てようやく現在の兵庫県の区域に至ります。
この5国、律令時代にできた五畿七道の名称が再び使われたのも因果を感じます。
長い長い争いの後、再び平和な時代がやってきたと言えるのかもしれません(国内では、ですが…)。
またその頃には藩はなくなっており、諸外国への備えで建てる要塞はあれど、それ以外でお城が築かれることはなくなりました。
所領の区域と文化の区域
ただ区域が変わってもそこに住む人々の歴史や文化が急に変わることはありません。
戦や城の多さが物語るのと同じくらい、文化的にも多様な歴史をたどってきた兵庫県
一部では民族間で細かく領域が分かれていた欧州のユーゴスラビアをもじってヒョーゴスラビアと呼んでいる方もいるそうです。
今回はそこまで調べきれませんでしたが、文化圏の多様さもまた、お城の多さに関係しているのかもしれません。
ユーゴは民族紛争と同じ文脈で語られるため、最近では五つの旧国だった頃の区域を指して兵庫五国と呼ぶ場合もあります。
編集:メディアディレクター 瀧